問題解決能力がないの裏面(メリット)は?

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どんな物事にも二面性が存在します。
つまり、確実に良いことも確実に悪いことも存在してないと考えていいでしょう。

問題解決能力だけが高ければいいのか

たとえば、問題のある事柄に直面した人ほど、その問題にどう立ち向かえばいいのかを考えるきっかけになる…とも捉えられるし、同時に、その問題解決能力を伸ばすことで一人で解決せざるを得ない孤立した状況を生むことだって考えられるのです。

つまり、問題解決能力が高いから良いのか、というと、これも疑問になりますよね?

多くの人は問題解決能力が高い人を仕事のパートナーとして選びます。

しかし、考えてみれば、それが能力主義の影響を受けているとも考えられるのです。

能力主義の影響もあるのでは?

人は能力に個人差があり、誰も同じように成長し足り同じ速度で物事を解決できるような人材に育てることはできません。

ですが、多くの人が同じように普通にそれができるようになったらできない人を責めるか、いえいえ、盛んだ解決が高いならその人の問題を解決してあげられるでしょう?と思うかもしれません。

しかし個人の思想もまた変わります。自分ができたことで自立性が高くなり人にきくことで解決することを軽んじてしまうことだって考えられます。

それか、もし協力的であったとしても周りが能力が高いことで当たり前のようにできることができないとなると障害認定されてしまう社会ができあがるかもしれません。

空気を読むという日本や韓国、中国ではハイコンテクスト文化として当たり前のように察する文化が生まれてますが、海外では、意志をはっきり伝えることがその人の能力評価につながります。

能力主義と優正思想の関係を見つめる

また能力主義は優生思想を生みやすい考え方です。

これはドイツの影響で、プロイセン時代の官僚主義と軍事制度に関係があります。

能力主義の原型を作ったのはドイツであり、軍隊でも「優秀な人を上に」というゼークト的構造が広がりました。

ゼークト構造とは何か…ゼークトの組織論のことを指します。

  • ・有能な怠け者(利口・怠慢)
  • ・有能な働き者(利口・勤勉)
  • ・無能な怠け者(愚鈍・怠慢)
  • ・無能な働き者(愚鈍・勤勉)

これらを判断して、有能か無能かを切り分けます。

詳しいことは検索して調べると分かりますが、
この問題の根底には評価する人間が正しいのかということにつながります。

必ずしも上の立場の人間が間違っていなければパワハラなんて起きるはずがないわけですよね。極論ですが。

ですからトップが間違えてもいい、それをカバーする人が必要なのです。

能力主義に固執することではなく、能力を個別に開花させるのはありなのでは

私は別に能力を開花させること自体は、反対ではありません。

しかしその問題として、教育の中でできなかった人が、努力不足として自己責任論を掲げるのもまた違うと考えています。

人それぞれ、能力は平等ではありませんが、モチベーションを高めることにより、開花させることも可能な能力はそれぞれに違います。

問題解決を重視するなら問題解決ができない人の能力も開花させるべきことが問題解決なんです。

問題解決能力を評価するならば、問題を起こして報告した人も評価させるべき(心理的安全性)

問題解決能力が全てを物語っているとするならば、問題を起こした人も同時に評価する必要になります。

悪意ではなく、問題を起こしてしまったことを報告できた人を評価することも必要です。

この辺は、たとえばヒヤリハットや事後報告をできる人も含めてです。

一度起きた問題にどう改善したかも重要ですが、問題提議で気づけなかったこと、うっかりミスだって、実例がなければ誰にも気づかない事柄です。

ですから、私はこう考えます。

ミスが多いことが問題ではない、ミスを少なくするにはを共に考える協調性

ミスが多いことを問題にするのではなく、ミスが多い人がどれほど改善意欲に取り組み、報告できたかも含めてが能力なのだと。

エラーが起きる…それが悪いのではなく、それをどう解決すればいいのかを、またその人個人の思考だけに頼らず一緒に考える姿勢も必要になります。

多角的な視野を入れるのは21世紀型の教育にも必要ですが、こうした問題を考えるには協調性が必要不可欠になります。

noteでは協調性という意味では他人の考えを否定から入らず肯定で物事をとらえているユーザーが多いのではと思います。

それでも構わないのですが、肯定した上で、自分の意見を添えて、こういう見方があるというだけでも、考えは深まるかもしれません。

アウトプットをせっかくnoteでしているのなら。

と話は脱線しましたが、こうした協調的に相手のことを考えながら自分の置かれた状況や能力の限界を見極めることにより、何が伸ばせそうで何が苦手なのかを一人では難しければ、色々なことに挑戦したり、協力を仰ぎながらという意味では、やはり今の時代、子供時代から協調性は強く求められるでしょう。

ただ私の考える協調性はアサーショントレーニングのように自分の意見はしっかり持って、人を傷つけないようにすることが最も大事だと考えています。

また21世紀型思考だけではなく、非認知能力を育むことも相互の能力として必要になってきます。

創造性、協調性、自己肯定感、達成欲、社会性、コミュニケーション能力のことを指します。

子供だけではなく大人も今この能力が必要でしょう。

会社にあっているかなんて入ってみないと分からない

他の人のように優秀である必要性は企業の貢献としては必要ですが、日本の社会は履歴書に縛られ、その人の適性を見抜けず、入社後に合わなくて辞めてしまうこと、転職回数が多くなってしまうことから考えても、転職回数だけで人柄を判断するのではなく、その人の能力に本当にあった人事評価ができる体制も必要になってくるでしょう。

一人が考えるのには限界があります。

まとめ:多様性を意識するならトラブルが起きる場面こそが人を成長させるのかもしれない

問題解決能力が高い人ばかりなら、問題が起きないということもないのです。

どうしてこのことが問題になったのかを考える人はいたほうが良いでしょうと同時に私は何度も言うように人には能力にはそれぞれ違うものがあり、二面性がある以上、悪いと思うところも一見してみると長所になり得る場合があるのです。

つまり、これから必要なのは、人を見極めるための、本質をつかめるような人事システムや教育の仕方などが影響されるでしょう。

特にこのAI時代は人のことをどれほど考えられるかがカギになっていくと私は感じられます。無関心でいると思考は育ちませんから。

ナオ

著者: ナオ

統合失調感情障害/角化症/元デザイナー/元フロントエンドエンジニア 「完璧な人間なんていない」が私の信条です。 限界はあるけれど、可能性はあると信じて生きています。

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