社会的弱者生存論-なぜ生存権が必要なのか-

📖著者: ナオ

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「社会的弱者生存論」という言い方は、「生存権」とも置き換えられます。

しかし、敢えて「社会的弱者」を付け足したのは、「優生思想」という考えがいかに危険か、誰しもが陥りやすい危険があるということを訴えかける必要と、社会的弱者を守る考えがいかに社会を幸福するかという考えからきています。

ちなみに、ここでの社会的弱者は「失業者、高齢者、障碍者、貧困者、外国人、能力的による弱者・・・etc」など社会的に不利な立場にある人のことを指します。

外国人を入れた理由は、日本の制度において外国人労働者が不利な立場に置かれていること、また、移民政策においても社会的弱者として扱われることが多いからです。

こうした社会的弱者は正義において批判される対象になりやすいのです。

正義は必ずしも正しいとは限らない理由

日本の教育では「人様に迷惑をかけるな」と同時に「人の役に立ちなさい」ということがセットになっていることがほとんどです。

  • 働いて役に立つこと
  • 社会的貢献をすること

この二つは最たる例です。

社会では必要な行為です。

しかし、一見正しいと思えることも、裏を返せば、危険な思想に偏ってしまうことがあります。

正義とは誰かの役に立つことです。

人はなぜ怒りを覚えるのか、それは、自分の大事なものを守るために怒りを覚えるのです。

なんでこんなこともできないの」という批判をする人がいたとすると、 それは自分は人より下の位置にいると思いたくないから自分の立場を守っているから。

それと同時に、

ダメ出しすることで相手の悪いところを指摘していることで相手を正している(社会の為だと考えてしまう)と考えられます。

正義の正当性は、自分がいかに、誰か(社会)の役に立ててると思うことによって、いくらでも攻撃できる材料を作れることに問題があります。

正義の名のもとに殺害ができるというのも、正義の名のもとなら何をしてもいいと思える心理が働いています。

以下がその例です。


  • 能力がない人は怠けているからその根性を正さなければならない
  • 道徳的に過ちを犯した人は徹底的に叩きのめさなければいけない
  • 精神障害者が人を傷つけて無罪になるのはおかしい、死刑になればいい

人の役に立てるとひとつ、とってもこんなに価値観が人によって変わるわけです。

では、なぜ正義が危険なのか?

たとえば、ネットで炎上して誹謗中傷が行われて、炎上した当事者が死に追いやられた時、必ずしも罪悪感に駆られるわけではありません。

ネットリンチは、大衆のもとに正義という形を借りた暴力であり、加害者としての責任がうやむやにされがちです。

執拗以上に正義感の名のもとに過剰に相手に攻撃的な言葉を浴びせるのも、脳科学的には「正義中毒」という言葉で表現されています。

人は正義を振りかざし他人を誹謗中傷することで脳内伝達物質である「ドーパミン」が放出され快感を覚えるのです。

つまり

人様に迷惑をかける人間はいなくなってしまえばいい

と思うこと

自分が生きているだけで誰かの負担になって迷惑にしかならないから死にたい

という風に考えることは同時に「人の役に立つこと」「人様に迷惑をかけないこと」の考えからきているのです。

同調圧力に屈すると冷静な判断が下せない

日本は、特に同調圧力が強い国です。

まず、人間は同調圧力に屈しやすいのです。

これを「同調バイアス」といいます。

これは、「物事の正しいか間違いかの判断より大多数の意見に合わせなければならない、みんなの意見に異を唱えない」ということを重要視する認知バイアスが働くことを意味します。

そして、「多くの人が信じていることなら、正しい意見かもしれない」と思う認知バイアスもあります。

これを「社会的証明バイアス」といいます。

事実、「みんながいってるから」という言葉を言って自分の意見を正当化する人を見かけたことはありませんか?

特にSNSというのは、エコーチェンバー現象といって、自分の考えを支持する人をフォローしたり、偏った情報をみることで自分の意見に偏りが出 てくる危険性があります。

みんながしていることでさらに正当化は担保されます。

「社会的制裁としては必要な犠牲だった」とか「むしろあれぐらいで自殺する方が悪い」とか「みんなやっていることだし」と・・・言えてしまう。

そしてそれが間違っているかを正せてないのはメタ認知という機能が弱いからです。

ではどうしたら正義中毒にならないことができるのかというと、

メタ認知のトレーニングをする

それは、自分の行動を客観視すること・・・

前頭前野を働かせることは、うつ病や不安障害などの精神病の改善だけではなく、

今の私はこういうことをして本当に正しいのだろうか」と

一歩引いて冷静になれる瞬間を作ることができるのです。

優生思想が正しいと思われてきた理由

さて、「優生思想」について話を戻しましょう。

ダーウィンの進化論は有名ですが、それを「近代統計学」と合わせて「優生学」の基礎を作ったのは、ダーウィンの従弟であるフランシス・ゴルトンです。

「人間でも優秀な者同士で何代も結婚すれば優秀な人間が増える」

ただ、当時のイギリスは優生学はたいして相手にされませんでした。

しかし、アメリカではこのイギリスの優生思想が伝わったことにより実際に優生学運動に発展する事態になりました。

ドイツの優生学については有名ですが、アメリカの優生学運動もありました。

IQテストが考案され、黒人が精神薄弱のレッテルが張られました。

そして、優生学記録局が設立され、障害者・貧困者などの社会て弱者を「不適者」とし、それにより、白人至上主義を中心として、結婚の禁止、強制断種を 政策として行われていた時代があったのです。

(日本でも、旧優生保護法という形で、優生学の思想が表れています。)

さて、このアメリカの優生学運動、模範としたのがナチス時代のドイツです。

ユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストは有名ですが、

同時に悪名高い「安らかな死」としてT4作戦と呼ばれる、20万人を超える障害者が殺害も行われてきました。

殺害の正当化の理由はも正義からきています。

障碍者がいる家族は負担が増えて不幸だから、障害者を殺害した方がいい」という考えです。

そして今の時代にもこういう優生思想に染まる危険性があるということもわかっています。

2016年、知的障害施設の利用者を殺傷し、19人殺害した事件、相模原障害者施設殺傷事件の犯人も、家族や社会の負担を減らすためという、まさに同じ動機です。

考えてもみてください。

障碍者が生まれて無理心中する家族、介護の負担によって自殺する家族の悲惨なニュースを見て

あるいはSNSなどを通して、障害者が社会にかける迷惑、何の罪もない健常者が傷つく現実について誰かを守ろうという思い自体は、必要な犠牲だったといえば、まかり通りそうだと思いませんか?

人の役に立てることは素晴らしく、人様に迷惑をかけてはいけない」という考えの究極です。

さらにこの考えは、「自己責任論」という考えも生み出しました。

能力を発揮できないのは個人の自己責任じゃないか」という主張が生まれてきた背景は

能力主義というのは努力で解決できるという思い込みがあるからだといえます

資本主義から生まれる能力主義の限界から考える努力で解決できない問題

日本の資本主義の最大のメリット、それは、高度経済成長をしたことにより先進国に引き上げられたことです。

商品やサービスの多様化により、消費者の生活の質の向上につながりました。

自由市場の原則から、競争社会に入り、企業は個人の能力を重視すること、成功を追求するようになりました。

資本主義の根底にあるのは能力主義(メリトクラシー)

です。

人の役に立つことは時代によって求められることが違いますが、社会が求めていることは能力を発揮することだということがわかります。

しかし同時にそれはすべての個人が、能力を求められるのですが、その能力や才能が人によって評価されること、必ずしも公平に評価されるということはありません。

さらに能力を求めることによる経済格差が生まれ、労働者に過大な負担を掛ける過労死やストレス過多による精神疾患を生み出しました。

能力主義というのは個人の力ではどうにもならない、環境や病気や障害によって、能力が制限されてしまうこともあります。

高度経済成長を迎えた日本はその後バブル崩壊を迎え、深刻な不況(失われた10年)につつまれ

景気変動による経営困難、そのために新卒採用が大幅に削減され、就職できずに苦しんだ世代が生まれました。

(俗にいう氷河期世代)

この問題は、日本の雇用システムである「一度きりの就職活動」や「年功序列」などの概念に根ざしているため、一度就職活動で失敗するとその後のキャリ アパスが大きく影響を受けるということも非常に深刻だったのです。

「低収入」による影響で結婚が難しかったり、老後の貯蓄や年金について問題などもありました。

ちなみに、既にご存じだと思いますが、第二次氷河期世代と言われているのは、2020年、2021年に就職活動をしていた、コロナ世代です。

努力すれば報われるという幻想

現状、努力すれば報われる、頑張ればどうにかなる「根性論」が通じるのは、能力を発揮できる環境(人脈)にあり、能力がある人に与えられた特権だという事実です。

そして多くの人が必ずしも恵まれた環境の中で働けることが可能かという問題もあります。

優れた人間には価値があり、劣っている人間には価値がないという能力主義ならではの価値観が生まれやすいのは、この能力主義からきています。

優生思想に人が走りやすいのは能力主義が重視される世界だからです。

先に申し上げたように、能力を発揮できないのは「自己責任」という考えができあがるのは、

人は努力すれば能力を発揮できる、能力を発揮できない人は努力が足りないからだ」 という思考に染まっているからです。

努力=頑張ることを美徳とする文化です。

なぜ、あなたは、頑張って辛い仕事を耐えなければいけないのでしょうか?

なぜ、あなたは、働けないことに対して、辛いと思うのでしょうか?

資本主義という世界で生きている以上、能力主義はつきものです。

自己責任論では個々の能力をカバーできません。

救済措置は必要です。

能力を持たざる者は無価値で必要のない人間だと思うことは社会的損失を与えることになります。

まず、能力は努力でコントロールできない問題を知ってください

私たちは親を選んで生まれるということはできません。

育つ環境や時代を選ぶことはできません。

私たちは、健常者と生まれることを保証されません。

私たちは、病気や障害にならない可能性はありません

私たちは、老化の影響を受けます。

人間の能力には個人差と限界があります。

努力だけで解決できません。

社会的弱者生存論がいかに必要か

  1. 社会の安定 社会的な弱者が安定した生活を送ることができれば、社会全体の安定性も高まります。貧困や不平等は、犯罪率の上昇や社会不安を引き起こす可能性があります。そのため、社会的弱者をサポートすることは、社会全体の安定に寄与します。
  2. 人権の保護 すべての人が基本的な人権を享受するためには、最低限の生活保障が必要です。そのため、社会的弱者の生存を支えることは、人権を尊重し保護する上でも重要です。
  3. 社会の公平性 生まれ持った状況や、自身のコントロールを超えた事象(病気や災害など)によって社会的弱者となった人々に対して、公平な機会を提供するためにも、生存論が必要とされます。
  4. 人間の尊厳 すべての人が尊厳を持って生きることができる社会を目指す上で、社会的弱者の生存を保障するための理論が必要となります。
  5. 社会的連帯 社会的弱者を支援することは、一体感や共同体意識を高め、社会全体の調和と連帯感を促進します。
  6. 経済的健全性 貧困層の購買力を向上させることは、経済全体の健全なサイクルを保つ上でも重要です。消費者としての彼らの存在が、市場の活性化や需要の創出に寄与します。

社会的弱者生存論を作り上げるためには、少子高齢化の現状と合わせ、国レベルで考えるためには以下の政策が必要です。

  1. 再分配政策 これには、プログレッシブな税制(所得が増えるほど税率が上がる税制)や福祉プログラムなどがあります。これらの政策は、貧富の格差を緩和し、社会全体の富を再分配することで、社会的弱者の生存を支えます。
  2. 教育と健康 資本主義社会において、教育は能力向上や新たなスキルを獲得する上で非常に重要な要素です。能力向上に努めることと健康を守ることは重要です。また健康に対しての関心を向けることは、病気の理解につながります。それは経済的成功に必要な知識と技術を提供し、市場で競争するための能力を育てます。また、教育は社会的流動性を促進し、不平等を緩和する重要な手段でもあります。
  3. 社会保障 社会保障制度は、病気、失業、老齢、障害などから生じる経済的リスクを軽減しま生活の質を高めます。これにより、個人が自己実現を追求する自由が保たれ、社会全体の安定が維持されます。
  4. 雇用創出 資本主義の経済は成長し続け、それにより新たな雇用機会が生まれます。これは、人々に収入を提供し、生活を支える手段を提供します。病気や障害、学歴、職歴に関係なく働ける社会を作ることは、人々の能力の可能性を導きます。労働時間の柔軟化、テレワーク、再教育プログラム、様々な方法を活用していきます。
  5. 社会的企業 社会的企業やNPOなど、利益だけでなく社会的な価値を追求する組織が活動を行うことで、社会的弱者の支援や雇用創出に貢献します。
  6. 移民政策の見直し 国内の労働力だけではなく、国外からの移民労働者の受け入れを拡大することも一つの選択肢です。これは労働力の補充だけでなく、多様性と新たな視点を社会にもたらすことができます。ただし、国民性で判断せず、社会保障や医療保険の制度なども治安維持として必要です。少子化対策は、社会保障の財源を確保するために消費税の税収が増えるため、社会保障制度を成立するためには必要な手段になると考えられます。
  7. 人権 日本には生存権が存在します。どんな生命に対しても尊厳が保たれる社会は、社会全体に安心感を与えること、少子化を救います。

子育てに関する社会的サポートも必要です。

  1. 教育と啓発 社会全体が子育てや家族生活の価値を理解し、尊重することを促進します。これには、教育プログラムやメディアを通じた情報提供などがあります。
  2. 社会的なサポート 地域社会やボランティア団体などが、子育てや家族生活の支援に関与することを奨励します。これにより、個々の家族だけでなく社会全体が子育ての負担を共有し、サポートすることが可能になります。
  3. 文化的な変革 男女平等や家事・育児分担など、社会全体の価値観や態度を変革することを推進します。これは、政策だけでなく社会全体の文化的な変革を必要とします。

無価値な人は存在してはならないという考えは必要ない

資本主義の限界は、能力主義という問題があります。

そのため、能力を発揮できないことによる自信喪失による、無価値感を抱きやすいことも挙げられるのです。

社会的弱者生存論は全ての人が公正な機会を得てなるべく健康に生き抜くことができる社会を目指す考え方です。

それを実現するには、健康第一主義であることが欠かせません。

人間は違う生き物だから能力には個々の差があり、能力を発揮できない人間もいること、その時代や背景によって、働けないこと、努力だけでは、コントロールできない問題があることを教育レベルで落とし込む必要があるでしょう。

そうした時、出来ることは、国の社会保障に頼ることを積極的に活用することです。

国の社会保障の財源は、消費活動につなげることができれば、地域経済の活性化につながります。

能力を発揮できないからと言って社会に必要がないという価値観を変える必要があります。

「社会的弱者生存論」を唱える人が増えれば増えるほど私も生きてもいいんだという安心感や余裕、価値観を生み自殺率を抑えることも可能になると思います。

ここまで、読んでくださって、ありがとうございます。

生存権がいかに重要なのか、改めて考えるきっかけになれば幸いです。

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